小俣和一郎『近代精神医学の成立』など (阿呆船は実在したか)

distracted2010-03-09

ある調べものをしていて、精神科医で精神医学史家の小俣和一郎による一連の著作に行き当たったのですが、首をかしげてしまう記述が散見されるので少しずつ指摘しておきます。

まず第一弾として「阿呆船」を巡る記述について。この問題の元凶はおそらくミシェル・フーコーの『狂気の歴史』であり、その影響下にある小俣の著作をフーコーと同断に論難するのは酷なことかも知れません。しかし小俣の著作 (の少なくとも一部) がフーコー批判という意図をもって書かれていること、そしてフーコーの言説を巡る問題に触れる前に小俣の著作を繙く読者もいることを考えれば、やはり指摘されて然るべきだと思います。

今回言及するのは以下 (フーコー関係以外)。

  • 小俣和一郎『精神病院の起源 近代篇』太田出版 2000年
  • 同『近代精神医学の成立 「鎖解放」からナチズムへ』人文書院 2002年
  • 同『精神医学の歴史』(レグルス文庫) 第三文明社 2005年 (→末尾の追記を参照)

関連して以下にも触れました。

※引用部の赤字は引用者による強調です。

問題の所在

「阿呆船」Narrenschiff は「愚者の船」などとも訳されますが、今でいう精神病患者などを乗せて水上を彷徨う船舶を意味し、こうしたモチーフは15・16世紀ごろの北方ヨーロッパの習俗や文学・絵画などに散見されます。代表的なところでは15世紀末にバーゼルで出版された『阿呆船』と題された風刺文学 (セバスティアン・ブラント作) がヨーロッパ中で大ヒットし、また同時期のフランドルの画家ヒエロニムス・ボスもこれを題材にした作品を残しています。

さて、こうした船が歴史的に実在したのか否かがここでの問題です。フーコーは『狂気の歴史』(1961年) でそれを実在の船であると述べており、今回取り上げる小俣の著作も同様です。しかし、結論からいえば専ら狂人を乗せて都市から都市へと移動するような「阿呆船」が歴史的に実在したと信ずるに足るような論拠はない、というのが衆目の一致するところであるように思います。

小俣の著作に疑問を感じるのは、フーコーの仕事からすでに40年ちかくが経過し、フーコーへの批判も1980年代初頭にすでに唱えられていたにも関わらず、やはりフーコーと同じ過ちを犯しているように思えるために他なりません。

下図はヒエロニムス・ボスによる『阿呆船』La Nef des fous。1510年から1515年ごろ*1

フーコーの記述とそれへの批判

まずフーコーの記述を参照してみましょう。原著を引用するべきですが、阿呆船の実在を巡る議論には翻訳の問題は直接関わらないのでとりあえず邦訳を参照します。

文芸復興期の空想上の風景のなかに、一つの新しい事物が出現し、やがてそれは特権的な位置をしめるようになる。それは狂人の船 [ネフ・デ・フウー]、つまりラインランド地方の静かな河川やフランドル地方の運河にそって進む奇怪な酩酊船である。

あきらかに阿呆船 [ナレンシッフ] は、〈アルゴ船物語〉という古い作品群から借用されたにちがいない文学的創作であって、この作品群が、神秘的な主要な主題のなかに甦り、ブルゴーニュ侯国では制度上の表象をあたえられたばかりだった。(略) そうした〈船 [ネフ]〉にかんする創作が流行する。(略) ボッシュの絵画が、こうしたあらゆる夢想の船に属しているのは、もちろんである。

だが、これらの空想的あるいは嘲笑的な船のうち、阿呆船 [ナレンシッフ] だけが現に実在した唯一の船である。実際、気違いという船荷をある都市から別の都市へとはこんでいた船が実在したのだった。(略) しばしば、ヨーロッパの諸都市ではこうした気違い船が接岸してくるのを見かけねばならなかった。

(ミシェル・フーコー著/田村俶訳『狂気の歴史』新潮社 1975年 pp. 25-26. []内は引用元のルビ。)

フーコーは「阿呆船」を実在した船であると述べています。これに対し、アメリカの西洋史学者エリック・ミデルフォートが異議を唱えました。

17世紀以前に哀れな狂人が監禁・収容されていたということだけが問題なのではない。それは厄介ではあったろうが、仮に中世後期を生きる者が狂者に向き合うための別の方法をもっていたとしたら悲惨なことではなかったであろう。つまり、フーコーがあのように長々と開陳してみせたところの阿呆船のことである。ここでの問題の中心はむしろ、歴史学者の真剣な探索にも関わらず、現実の阿呆船に関する記録がまったく発見されていないことである。気が触れた人間を追放あるいは流刑に処したという記録は確かにあり、また都市が貧しい精神病者に対して自宅に帰りつけるだけの小銭を渡したという例も存在する。時には狂人が船で送られてゆくこともあった。しかしながら、失われた理性を求めて巡礼する狂人らを乗せたという実際の船に関する記録はどこにも見出されていないフーコーが依拠している典拠が述べているのは、都市が時に対処が困難な狂人を放擲するために船を用いたということだけであり、これに関しても船に乗せられて追放された男の僅か一例が知られるのみである。そしてその意図は彼を溺死させることであったと考えられている。というのは、15世紀にドイツ法の一部は手に負えないケースに関して死罪を導入していたからである。水のもつ力についてのフーコーの熱を帯びた文章は、こうした残忍な挿話の視点からみれば別の意味合いをもってくるのである。

(H. C. Erik Midelfort, "Madness and civilization in early modern Europe: A reappraisal of Michel Foucault", in Malament (ed.), After the Reformation: essays in honor of J. H. Hexter, Manchester University Press, 1980, p. 254. 引用者による訳。)

こうしたミデルフォートのフーコー批判にはフーコー擁護の立場からの反論もありましたが、「阿呆船」自体が存在していなかったことについては一致をみているようです。

ミデルフォートは、研究者の堅実な成果と対照させつつフーコーの [「阿呆船」を扱った] 文章が、筆が滑った空想の産物であることを鮮やかに暴露してみせている。愚者の船というものは現実には存在しなかったのである。ミデルフォートによるフーコーの論難は、河川を経由した追放処分が中世におけるシステマチックな狂人の処遇としては記録されていない、という主張に立脚しているように思われる。この論難はおそらく正しいだろう。しかしフーコーがその反対を主張しているというわけではない。

(Colin Gordon, "Histoire de la folie: an unknown book by Michel Foucault", in Still & Velody (eds.), Rewriting the history of madness: Studies in Foucault's Histoire de la folie, Routledge, 1992, p. 32. 引用者による訳。ちなみにミデルフォートはさらに再反論しています (フーコーがその反対を主張しているわけではない、というゴードンの見解に対して)。Cf. Midelfort, "Reading and believing: On the reappraisal of Michel Foucault", ibid., pp. 105-109.)

ミデルフォートや他の研究者が強調するように、それら [阿呆船] が存在したという証拠はない。むしろ研究者らは「阿呆船」は中世後期のアレゴリーあるいは象徴表現の一例である、ということで一致をみている。この象徴的な表現は四旬節の行事に現われ、文学においてさらに広がりをみせた。その代表はセバスチャン・ブラントの説教的な長詩『阿呆船』(1494年) である。しかしながら我々は、現実の狂人が満載された現実の船が現実の河川や運河を運航していた、ということを立証できる根拠はどうやら何ひとつもっていないのである

(Allan Megill, "Foucault, ambiguity and the rhetoric of historiography", ibid., p. 88. 引用者による訳。)

こうした議論をみる限りでは、ヒエロニムス・ボスやセバスチャン・ブラントが描写するような「阿呆船」はあくまでシンボリックな存在であると考えた方がよさそうです。非在の証明はいわゆる悪魔の証明になりますが、少なくとも阿呆船の実在を積極的に示す史料はみつかっていない。

時系列を確認しておくと、フーコーの『狂気の歴史』の原書 Folie et déraison. Histoire de la folie à l'âge classique は1961年に刊行され、1965年にはその英訳が出ましたが、この訳は1964年に刊行されたフーコー自身による仏語縮約版の訳であり、英語圏ではこれを遠因としてフーコー受容を巡る議論が生じました。1980年に発表されたミデルフォートのフーコー批判は広い意味ではこうした議論に含まれるでしょう。一方で日本語訳 (新潮社) はガリマール社から1972年に発行された原書第2版 Histoire de la folie à l'âge classique を底本にして1975年に刊行されています。

小俣和一郎の『精神病院の起源 近代篇』と『近代精神医学の成立』

気がついた範囲ですが、小俣和一郎の著作で阿呆船に言及した箇所を挙げます。

ここで誤解のないように付言するならば、中世における精神病者の処遇にも、一方では精神病院的施設の建設と精神病者の収容という人道的・慈悲的処遇があり、他方では魔女狩りや阿呆船 [ナレンシッフ] に代表される精神病者の処刑・排除が厳然と存在していたという事実である

(小俣和一郎『精神病院の起源 近代篇』太田出版 2000年, p. 270. []内は引用元のルビ。ちなみに挿絵としてボスの『阿呆船』および『愚者の石』を掲載しています。)

近世以前の精神病者の処遇については、史料的制限もあってその詳細を再現することは容易ではない。しかしながら、たとえば中世に限ってみるかぎり、精神病者フーコーのいうように、自由な存在ばかりであったとはいえない。少し考えてみただけでも、中世ヨーロッパを席巻した魔女狩りの嵐は、多くの精神病者をその対象の内に含めていただろう。魔女狩りばかりではなく、中世自治都市 (とくにハンザ都市などの交易地) においては、すでに精神病者を隔離する「狂人檻」 (Narrenkäfige あるいは Narrenkiste) が設置されており、内陸部の水運を利用して病者を都市から都市へとたらい回しにする「阿呆船」(Narrenschiff) が運航されていた

(小俣和一郎『近代精神医学の成立 「鎖解放」からナチズムへ』人文書院 2002年, p. 15.)

ヨーロッパ中世の自治都市は、都市の安全を目的に精神病者らを追放する手段の一つとして「阿呆船」を利用した。これには当座の食物や水だけが積まれ、病者は集団で河口へと流された。途中の町などで見物人が食物を船に投げ入れることもあったという。中世オランダの画家ヒエロニムス・ボッスの画題の一つに、この「阿呆船」がある (パリ・ルーブル美術館蔵)。

(同書, p. 189. 上記引用箇所「Narrenschiff」に付された注16。)

ここで再び指摘しておかなければならないのは、中世から近世にかけても、精神病者に対して、ただ一つだけの画一的な対応・処遇がなされていたのではなかった、ということである。これまでの精神医学史は、中世以降の精神病者魔女狩りなどによって一様に迫害され、近世以降においては拘禁施設へと一括して狩り込まれたかのような記述で満たされている。たしかに一方においては魔女狩りや「阿呆船」(Narrenschiff) などにより、多くの精神病者が処刑または流刑されていたことは事実であった。しかし、その一方で精神病者を保護し、雨風をしのぐための部屋と食事 (Kost und Logis) を供給した上述のような慈善的収容施設もあった。

(同書, p. 40.)

小俣は特に留保なく阿呆船の実在を「事実」としています (2005年の著作でも同様のようです。末尾の追記を参照)。なるべく寛容な読み方をするとしても、やはりこうした記述は読者に不親切であるといわざるを得ません。フーコーの記述には多くの批判があったわけですから、仮にフーコーの主張を無批判に受け売りしているとすればそれはあまりに不注意です。そして何か根拠があって「阿呆船が実在した」と書くのであれば、その根拠を提示する必要があるでしょう。特に「当座の食物や水だけが積まれ、病者は集団で河口へと流された」「途中の町などで見物人が食物を船に投げ入れることもあったという」などという記述は伝聞とも思える書き方ですが、典拠が示されていません。これは批判に堪えうる文章とは言い難いように思います。

やや余談ですが、二つ目の引用の「内陸部の水運を利用して病者を都市から都市へとたらい回しにする「阿呆船」(Narrenschiff) が運航されていた」という記述は、中井久夫による『分裂病と人類』(1982年、第3章「西欧精神医学背景史」) の次の一節を思わせます。

中世ヨーロッパの交通といえば多くは連水運搬であったが、自然の河川や運河を通じての舟運に携わる船員に託して精神病者を都市から都市へたらい回しにする、いわゆる "阿呆船" が現われる。ときにはベルギーの寒村ゲールのように精神病者を集団的に受け入れる場所も出てくる。M・フーコーが強調する面である。

(中井久夫分裂病と人類』東京大学出版会 1982年 pp. 129-130.)

中井の記述も「阿呆船」の存在を認めているわけですが、これを小俣と同断に批判することはできません。『分裂病と人類』はこの部分に関わるフーコー批判がアメリカで提唱され始めて間もない時期に発表されたものであることに加え、中井は「阿呆船」という呼称を舟運に携わる船員に託して精神病者を移送する、という意味で用いているからです。ボスやブラント的な「阿呆船」が念頭にある者にとっては中井のいう阿呆船が「いわゆる "阿呆船"」といえるかどうかは微妙ですが、少なくとも水運による移送や追放があったことは (フーコーもその批判者も述べているように) 史料に確認されています。つまりフーコーが批判されるのは、そうした史料にみられる狂者の追放という事例ではなく、専ら精神病者を集団で追放するための船として「阿呆船」が存在した、という見解を述べているからであり、このフーコーの見解に留保なしに追随するような記述をしている限り、やはり小俣は批判を免れ得ないと思われるのです。

精神医学史研究への貢献という意味での小俣の仕事の意義については、専門家ではない立場の者が軽々に評することはできないでしょう。臨床医としての評価についても同様です。しかしそれらがどうであれ、すでに初版から40年ちかく経過しているフーコーの仕事の欠点を繰り返すエクスキューズにはならないことはいうまでもないでしょう。

おまけ

最後に、ヒエロニムス・ボスの研究者がこの問題に触れた文章を紹介しておきましょう。フーコーへの批判を踏まえつつ「阿呆船」の含意をうまく引き出しているように思います。

それでは、阿呆の航海とは一体何を意味するのか。これには少なくとも二つの文脈が読み取れるように思われる。ひとつは阿呆の「追放・強制退去・流刑」という読取りであり、阿呆の追放によって、体制は再びかつての信頼あるものに引き戻される。他のひとつは、阿呆の国への旅立ちという読取りである。これははるかな遠方にあって愚かな希望の理想像として出現したユートピアともいえる。

前者の文脈に対して一つの解答を与えたのが、ミシェル・フーコーである。彼はルネサンス期の空想的な文学上の船の中で、「阿呆船」だけが実存した船であり、阿呆という船荷を都市から都市へと運んだという。彼はライン川沿いの河川やフランドル地方の運河をゆく船を想定しており、十五世紀前半にニュルンベルクで阿呆が追放された例や、一三九九年にフランクフルトで阿呆が船頭に預けられマインツまで送られた例などを挙げている。しかし、阿呆だけを満載した船が「阿呆船」として実在し、阿呆を追放したという記録は見られず、フーコーのテーゼに対する批判も多い。

とはいえ、ここで重要なのは、阿呆が船に積まれてある目的地まで運ばれたかどうかということよりも、阿呆の存在しうる位置が航海中の船上においてのみ見いだせるという点である。つまり、大地においてはもはや自分のものとなりうる場所を見いだせない阿呆が、船の浮かぶ「水」という要素の中にその浄化作用を見つけだしたともいえる。フーコーのことばに従えば「水は運びだす、しかし水はそれ以上のこと、つまり浄化するのである」。「阿呆は自分のものとなりえない二つの土地の間にあるこの不毛の広がりにおいてしか、自己の真実と祖国を持ち得ないのである」。「阿呆」と「船」が出会うこの一致点は、また船のもつ「避難所・聖域」(アジール) としての機能に由来している。公共的施設での争いを禁じ、治安を維持しようとして「平和領域」が設けられ、ことに「渡し船」の中では、追われてきた罪人も捕らえることはなかったという。

(神原正明『ヒエロニムス・ボスの図像学 阿呆と楽園に見る中世』人文書院 1997年, pp. 67-68.)

追記:『精神医学の歴史』(レグルス文庫) 第三文明社 2005年 について

未参照ですが、この本についても「阿呆船」を巡る上記と同じ指摘が Amazon のレビューにありました。過去の二著作と同じく「阿呆船は実在である」との主張を述べているものと思いますが、委細は未確認です。