小俣和一郎『精神病院の起源 近代篇』 (ベスレム病院)

distracted2010-03-18

臨床医で精神医学史家の小俣和一郎による『精神病院の起源 近代篇』は日本および諸外国の精神病院史を論じたやや専門書的な書物です。 前回 同様ピンポイントでの指摘になりますが、歴史的に有名なイギリスのベスレム (ベドラム) 精神病院について述べた部分におかしな記述があるように思いました。第3章「諸外国の精神病院史」5節「イギリスとアイルランド」。

しかし一七世紀に入ると、ベスレムは大々的な拡張のときをむかえる。一六七五-七六年にかけて、病院は市内のムーアフィールズへ移されたうえ、大改築される。このとき、精神病院の歴史上、現在われわれの使う『保護室(Cell, Zelle)』という言葉が設計上でも建築上でも、はじめて定義され登場したという(注46)。

(小俣和一郎『精神病院の起源 近代篇』 p. 172)

参考までに OED によれば「個室」という意味での "cell" という言葉は12から14世紀くらいの修道院での用法に遡り、特に囚人の独房あるいは狂人を収容する部屋という意味での初出は1722年とあります*1。つまり著者の主張が正しければ OED の記述は50年ほど訂正されなければならず、これはちょっとした発見です。

そこで著者が「注46」で論拠として示したドイツ語論文、 D. Jetter, "Wichtige Irrenhäuser in Frankreich, Deutschland und England (1800-1900)", Fortschr. Neurol. Psychiat. 60 (1992) pp. 329-348 を参照してみます。問題の第2期ベスレム病院について述べた箇所を引用。

London das 2. Bethlem Hospital in Lower Moorfields

  • (1675-1676?) als grosszügiger Neubau nach Plänen von Robert Hooke, einem Professor für Geometrie und Amateur-Baumeister, der mit Hilfe seiner "magnifying glasses" die Hohlräume im Kork sah und dann den Begriff "Zell" (cell) geprägt hat. Das 2. Bethlem Hospital ist 1725 und 1736 durch Seitenflügel erweitert worden. Denn trotz aller Skandale und Gruselgeschichten blieb es das einzige grössere Irrenhaus un ganz England vor 1800.

(p. 342)

確かに "cell" という言葉に触れているようですが、細胞の発見者として著名なロバート・フックという名も見えます。参考までに Google Translate で英訳した結果が以下です。

  • (1675-1676?) As a generous new building, designed by Robert Hooke, a professor of geometry and amateur architect, who saw through his "magnifying glasses," the cavities in the cork and then coined the term "cell" (cell) . The 2nd Bethlem Hospital has been extended through 1725 and 1736 wings. For, despite all the scandals and horror stories, it remained the only large lunatic asylum in England before 1800.

つまり、この部分は件の病院が「顕微鏡によってコルクを観察し、《細胞》(cell) という用語を案出した、幾何学教授で素人建築家でもあったロバート・フックの設計で建築された」ということを述べています。余談ですが、この時代のイギリス建築では科学者でもあったクリストファー・レンが著名ですが、その陰でフックもかなり建築の仕事をしています。

さて、ざっと見たかぎりではこの論文で他に "cell" とベスレムについて述べた箇所はなく、「精神病院の歴史上、現在われわれの使う『保護室(Cell, Zelle)』という言葉が設計上でも建築上でも、はじめて定義され登場したという」という伝聞調の解説は、出典を挙げるまでもない精神医学史の常識であるか、あるいは出典論文の誤読による端的な誤りであることが疑われます。原論文を参照する限りでは後者であるという疑念を拭うことは困難なのですが、この分野の専門家でドイツへの留学経験もある著者がわざわざ出典を挙げてこのような間違いを記述してしまうというのも腑に落ちません。

仮に著者が想定しているのがベスレム精神病院の元祖となった施設であるならばその誤謬の原因も予測できないわけではありません。史料によればベスレムは13世紀まで遡ることができ、ヨーロッパで最も古い歴史をもつ精神病院であるといわれます。13世紀ごろの修道院ならば病人などを受け容れ、僧房 (cell) を病室や独房に充てることは珍しいことではなかったでしょう。したがって元祖ベスレム、あるいはそれに近い古い時代のベスレムに "cell" が明確に設計されて設けられていたとすれば、それは確かに西洋の精神病院史上で初めて「定義され登場した」個室・独房・保護室であったかも知れません。しかし著者が問題としているのは第2期、すなわち17世紀の建て替えの際の話ですので、やはりその記述には疑問が残ります。

出典の論文が示されていたためこうした考察が可能になったわけなので、その意味では非常に良心的な書物です。しかし仮に上記の疑問が著者の誤読に由来するものだとしたら、この書物の他の部分、そして同じ著者による他の仕事の信頼性に不安を禁じ得ないのも事実です。

書誌:
小俣和一郎『精神病院の起源 近代篇』太田出版 2000年。
ISBN 4-87233-5341-1

*1:The Oxford English Dictionary, Second edition, Volume 2, Clarendon Press, 1989, p. 1021.